(ぬきさんしゅぜんいん・しんこうじ)
延応元年(1239年)、阿聖(あしょう)上人が全国を巡錫砌、貫山に紫雲棚引くのを見て、貫山が霊山であると感じて 庵を結んだのが「貫山真光寺」の始まりである。その后、中国地方の「大内」氏の豊前進行に当たり、真光寺に本陣を置いた。
しかし、その戦いで伽藍を全焼、戦勝の「大内」氏は中忠左衛門(なか・ちゅうざえもん)を復興奉行とし、伽藍を再興し、 「大内」氏の豊前の祈願寺となった。以後、下寺35坊と言われるほどに隆盛を極めた。
江戸時代に入り「小笠原」氏が豊前の領主となり、真光寺は「小笠原」氏の祈願寺となった。 それにより「修善院」を送られ、「貫山修善院真光寺」となり、寺紋は「大内菱」から「三階菱」となった。
慶応二年(1866年)の小倉戦争で長州の奇兵隊等の攻撃に会い、またも伽藍を焼失した。 その後、残った小堂を仮本堂として、本尊阿弥陀如来を始め焼け残った仏像をお祭りし今日に至っている。
宗派 | 高野山真言宗 |
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本尊 | |
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