その後、筑後川の氾濫原にあったためたびたび洪水に遭い、八坂(現在の朝倉市宮野)の地に移転した。しかし、たびたびの戦火や火災のために災難が続くのであった。 その時、「火事を防ぐために林に水を注げ」とのお告げを得て境内裏手に三つの井戸を掘り(現在の裏庭の池)、「林」に「サンズイ」をつけて「淋」とし「南淋寺」と改めた。以後数百年火災に遭うことはなかった。
(いおうさん・なんりんじ)
第57代桓武天皇の延暦23年7月、比叡山の僧最澄(後の伝歓大師)と空海(後の弘法大師)は藤原葛野麿を長とした遣唐使の一行と博多の那の津港(一説には平戸)から船出した。しかし、途中暴風雨に遭い入唐を諦めなければならない状態であった。この時最澄は「無事に唐の国に渡ることが出来たら、お礼に仏像を刻み寺を建てて衆生を救うため一生を捧げます。」と、仏に祈られ無事に唐の国に到着し、仏教の研究に努力され、翌年帰国された。時に最澄38歳・空海31歳であった。帰国後、誓願を果たすため良材を求めて筑前の山々を尋ね、ようやく夜須郡の白山(現在の朝倉市古処山)の麓で霊木を見出し、七体の仏像を一刀三礼して彫刻し供養されたが、一夜にしてその七体の仏像は無くなったのであった。最初の一体を秋月(現在の朝倉市秋月)の地でまつる予定であった最澄は仏様のお告げにより上座郡長渕(現在の朝倉市長渕)で見つけ、そこに寺を建立し、仏を奉り「南林寺」と名付けた。

その後、筑後川の氾濫原にあったためたびたび洪水に遭い、八坂(現在の朝倉市宮野)の地に移転した。しかし、たびたびの戦火や火災のために災難が続くのであった。 その時、「火事を防ぐために林に水を注げ」とのお告げを得て境内裏手に三つの井戸を掘り(現在の裏庭の池)、「林」に「サンズイ」をつけて「淋」とし「南淋寺」と改めた。以後数百年火災に遭うことはなかった。

| 七仏薬師とその霊場 | ||
|---|---|---|
| 第1番 南淋寺 | 朝倉市朝倉町太字宮野 | |
| 第2番 比叡山根本中堂 | 京都府比叡山 | |
| 第3番 宝満山宇智山中堂 | 廃寺 | |
| 第4番 東光院 | 福岡市堅粕…廃寺 | |
| 第5番 種因寺 | 嘉穂郡桂川町…仏像 | |
| 第6番 因幡堂 | 京都市四条 | |
| 第7番 広降寺 | 京都市太秦 | |
| 南淋寺の変遷と住職世代 | ||
|---|---|---|
| 天台宗時代 | 大同元年(806)より貞和二年(1346)541年間 | |
| 住職 | 最澄(初代)より仁能(219世) 現在地 朝倉市朝倉町大宇宮野(八坂)に移転 仁能-慈本-仁能と交代した後 | |
| 曹洞宗時代 | 貞和二年(1346)より慶安元年(1648)302年間 | 
|---|---|
| 住職 | 宗本より76世 | 
| 真言宗時代 | 慶安元年(1648)より359年間 南淋寺創建より現在 通算1202年間 | 
|---|---|
| 住職 | 快遍和尚より59世現在住職まで 通算355世 (黒田忠之の命により東光院と同じ真言宗にした) ※曹洞宗 南林寺は福岡県前原市に現存 | 
| 文化財 | |
|---|---|
| 本尊薬師如来像 | |
| 国宝 | 大正 元年9月3日指定 | 
| 重要文化財指定 | 昭和25年8月29日指定 | 
| 梵鐘 | 応永28年7月8日 住職正泉和尚時 | 
| 福岡県重要文化財 | |
| 雲版 | 元禄17年1月26日 清香庵跡より出土 室町初期の型 | 
| 混繋図・南淋寺縁起・絵図・掛け軸など | |
| 逸話 | |
|---|---|
| 鷲の子・国司の妻・病気・出産・早魃・洪水・窃盗・塩について等 | 
| 曹洞宗時代の資料(縁起より) | |
|---|---|
| 寺領 | 22町4反4畝 | 
| 山林 | 25町3反 | 
開創1200年(平成17年)を迎える。
| 宗派 | 真言宗大覚寺派 | 
|---|---|
| 本尊 | 薬師如来座像 | 
| TEL | 0946-52-0332 | 
| FAX | 0946-52-1173 | 
| 住所 | 〒838-1302 福岡県朝倉市宮野86 | 
| アクセス | ・西鉄甘木線または甘木鉄道の甘木駅から西鉄バス比良松下車、徒歩15分 ・大師寺より筑後川を渡って朝倉方面へ右折、ひわたし橋交差点を左折し、 国道386号線を左へ、橋を渡ってすぐ右折 ・境内手前に駐車場あり |